2009年12月09日

国民保護

国民保護(こくみんほご)とは、万が一、外敵から武力攻撃があったときに、国民の生命、身体および財産を保護し、武力攻撃に伴う被害を最小に抑えるために、国、都道府県、市町村等が相互に連携協力し、住民の避難や救援措置等を行うことをいう。また、国民保護について定める武力攻撃事態等における国民の保護のための措置に関する法律(平成16年6月18日法律第112号)即ち国民保護法では、テロなどの被害に対しても有事の国民保護に準じた措置をとることとされている。このことから、今日の国民保護は有事(武力攻撃)及びテロの脅威に対する措置として定められている。

国際的には民間防衛に相当する。日本において国民保護と呼称されることとなった背景には、外務省により民間防衛を文民保護と訳されていることから、日本政府による自国民の保護ということで国民保護というようになったものである。国民保護という呼称そのものは主に日本において用いられる。

国民保護とは、ジュネーヴ諸条約第一追加議定書及び第二議定書すなわち民間防衛条約に基づき、日本が戦争などの有事から文民を保護するために整備した武力攻撃事態等における国民の保護のための措置に関する法律通称 国民保護法により、有事などの不測の事態に際して、国民の避難救援などを行うことをいう。諸外国では民間防衛或いは文民保護と称するが、通常国際的に民間防衛は戦争からの文民保護のみならず自然災害などからの救済といった災害対策をも包含する包括的概念である。
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日本においては災害対策即ち防災と国民保護は異なる法律に規定されており、有事と災害の対策は分離して考えられている。

国民保護法に基づき国は対処基本方針及び国民保護に関する基本指針を策定し(第10条第1項)、閣議における決定及び国会報告の後、公示しなければならない(第32条第2項・第3項)。基本方針に定める事項については国民保護法第32条第2項に規定されている。

2009年11月30日

バナナ型神話

バナナ型神話(バナナがたしんわ)とは、東南アジアやニューギニアを中心に各地に見られる、死や短命にまつわる起源神話である。
重要なアイテムとして、共通してバナナが登場することから、スコットランドの社会人類学者ジェームズ・フレイザー(Sir James George Frazer, 1854年 - 1941年)が命名したものである[1]。日本神話にも、この変形と見られる説話が挿入されている。

「バナナ型神話」とは、だいたい以下のような説話である。神が人間に対して石とバナナを示し、どちらかを一つを選ぶように命ずる。人間は食べられない石よりも、食べることのできるバナナを選ぶ。変質しない石は不老不死の象徴であり、ここで石を選んでいれば人間は不死(または長命)になることができたが、バナナを選んでしまったために、バナナが子ができると親が枯れて(死んで)しまうように、またはバナナのように腐りやすく脆い体になって、人間は死ぬように(または短命に)なったのである。
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日本神話では、天孫降臨の段において類似した説話が見られる。降臨した天孫ニニギに対し、国津神であるオオヤマツミが娘のコノハナノサクヤビメとイワナガヒメを嫁がせる。しかしニニギは醜いイワナガヒメを帰してしまい、コノハナノサクヤビメとのみ結婚してしまう。コノハナノサクヤビメは天孫の繁栄の象徴として、イワナガヒメは天孫の長寿の象徴として嫁いだものであったが、イワナガヒメが送り帰されたために天孫(天皇)は短命になったのであるという。この説話にはバナナが登場しないが、岩すなわち石を名前に含むイワナガヒメが選ばれていないこと、それによって短命になったということから、バナナ型神話の変形と考えられている。コノハナノサクヤビメはすなわちすぐに散ってしまう花であり、食べればなくなってしまうバナナに対応しているとも考えられる。

旧約聖書の創世記に出てくる生命の樹と知恵の樹(善悪の知識の樹)の説話もこのバナナ型神話の変形であると考えられる。

2009年11月26日

24時間テレビチャリティー大喜利

1988年に初参加。毎年8月『24時間テレビ 「愛は地球を救う」』内で17時台前半あたりから生放送される。かつては特別ルールとして、座布団1枚につき、1万円を募金していたが、この時に限っては募金をさせるためにつまらない答えでも座布団がどんどん与えられる一方、座布団を剥奪される場面がなかったため、当然ながらこの放送を見ていた一部の視聴者から、このルールに対しての抗議を受けることとなった。また、1990年の放送の際にはメンバーが照れ隠しで募金を嫌がる演技をしたところ、「チャリティー番組なのにけしからん」とやはり抗議を受けることとなり、それ以降は笑点メンバー全員が自ら募金をする様になり、最近では通常の「笑点」の放送と同様に、演芸コーナーと大喜利の2部構成となり、大喜利では座布団が一番多かったメンバーに賞品が送られる。また、座布団運びはメインパーソナリティーが行う場合もある。
因みに2007年の放送では、演芸コーナーにタカアンドトシが登場し、大喜利での豪華商品は、この年の24時間テレビのメインパーソナリティーで、大喜利のコーナーで特別に座布団運びを務めたタッキー&翼の滝沢秀明とのツーショット写真が撮れるというものだった。
2008年の放送では、演芸コーナーにチュートリアルが登場。メンバーの挨拶では、楽太郎が「次期司会次期圓楽の楽太郎です」と、番組内では初めて6代目圓楽襲名に触れている(歌丸による「悪太郎」発言もこのときが最初)。この年から大喜利では賞品は無くなった。3問目の最後で、たい平が「嵐に会わせてくれると武道館に連れてってくれるって言ったのに、いるのは笑点メンバーのジジイばっかり」と言い放ったため、全部没収されてそのまま大喜利終了となった。
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2009年の放送では、演芸コーナーにネプチューンが登場。大喜利で木久扇が「イカの金玉」を発し、同時に実施されていたリアルタイム字幕放送ではその文字がそのまま出てしまった。また、山田隆夫の家族が会場に見に来ている所を好楽が発見し、家族の名前を言っている。3問目でたい平が歌舞伎役者の物真似をしながら上手へ引き上げた後、山田がたい平の席に座るシーンが34.1%の瞬間最高視聴率を記録した。

2009年11月11日

国粋主義

国粋主義(こくすいしゅぎ)とは、歴史や文化・伝統に裏付けられたその国の美点と見なしうる文化を保護しようとする思潮や運動。

近代日本の民間運動としては明治時代の中ばに鹿鳴館外交の欧化主義に対峙するものとして登場した。政教社と民友社に代表される。政教社の三宅雪嶺・志賀重昂らは、「国粋保存主義」を掲げ、日本の伝統文化の優秀性を論じ、欧化一辺倒の社会風潮に反して、自文化を西欧文化と同等に相対化して見直そうとした。民友社の徳富蘇峰らは、平民主義の立場から、貴族的な欧化主義に反発し、日本文化に根ざした平民のレベルでの欧化を目指した。 これらの運動の中で、「西洋」という言葉に対する語としての「東洋」が一般化する。
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欧化主義の代表例として、西欧貴族文化を日本文化として取り入れようとした鹿鳴館時代がある。また、日本語をローマ字化し、漢字や平仮名、片仮名など、中国文化の影響下で発展してきた日本文化を根絶、もしくは衰退させ得る運動も起こった。明治期に起こった国粋主義者は、このような風潮に反発し、自文化の優秀性を、西欧文化における価値と対等に比較できるものとして捉えた。従って、西欧文化に対する理解も相当に持ち、普遍的な意味での自文化至上主義を唱えたわけではない。

国粋主義の原義に於いては、全体主義・ファシズム・人種差別・民族差別・排外主義など、いわば右翼的国体論とは路線が異なるが、日露戦争以後、対外膨張政策の精神的支柱だった皇国史観の高まりにより、西洋文化との相対化といった価値観は、他文化に対する優越性という価値観に変異し、自文化至上主義が形成されるようになった。

2009年10月30日

世界最初の真空掃除機は

世界最初の真空掃除機は、1868年にシカゴのアイヴス・マガフィーによって発明された。原理は、手でレバーを引いて真空を作り出し、ノズルからゴミを吸い取って容器に溜めるという簡単なものであった。彼は1869年6月8日にこの特許を取得し、ボストンにあるカーペット清掃会社に売り込むことに成功した。こうして誕生した世界最初の真空掃除機がシカゴとボストンで発売されたが、当時としては$25もする高価なものであり、ノズルをゴミに当てながらいちいち手でレバーを引くのが面倒という欠点のため、やがて市場から姿を消していった。

最初の電気式真空掃除機は、1901年にイギリスのヒューバート・セシル・ブース(Hubert Cecil Booth)によって発明されたもので、布フィルターを備えていた。しかし、当時は電気を引いた家庭は稀であったため、業務用であった。1905年には最初の家庭用の電気掃除機がアメリカのチャップマン・アンド・スキナー社から売り出され、これはポータブル型ではあったが重さが92ポンド(約40キロ)もあった。そして、アップライト型掃除機の原型が1907年にアメリカのJ・マーレー・スパングラーによって発明され、この権利を買い取ったアメリカのフーバー社が1908年に$70で売り出した。これが初の商業用モデルとなった。
ポストマン
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ライトの売上げアップ
愛の誠実
雨のち晴れ
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快斗の三位一体
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琴音の七五三
喧嘩上等
最後の楽園
紫陽花
春夏秋冬
笑顔の輝き
人魚姫
青汁のんたん
息子の誕生日
置き手紙
東京行進曲
白雪姫

日本で発売された最初の電気式真空掃除機は、芝浦製作所(東芝の前身)が1931年に発売したアップライト型(ホウキ型と呼ばれていた)だった。(写真)。また進駐軍家族団地「ワシントンハイツ」に於ける電化製品メンテンス工事を、特別調達庁(SPB)から請け負っていた東京の太平興業が、米国製品を参考に1949年に自社開発、秋葉原等で販売を開始した。ところが当時の日本家屋のほとんどが畳と板間であり、「はたき」や「ほうき」でサッサとゴミを家の外に掃き出す方が簡単で早かったため、真空掃除機は殆ど普及しなかった。

2009年10月20日

簡素な構造による微妙な音色の演奏表現

木・竹・皮など天然素材を生かしたものが多く、近代・現代西洋音楽の複雑な機構を備えたピアノやベーム式フルートなどの楽器と比較すると、構造は簡潔で、操作のための器具がシンプルであったり無かったりする。西洋音楽は、その発達の段階で旋法から調性に基づくようになり、純正律に代えて転調に有利な平均律を導入してきた。そのような体系化の中で、楽器に複雑な機構を要求するようにもなった。

日本の音楽ではこれらのことを実現するための複雑な機構を求めるケースは少なく、あっても調弦変えや持ち替えなど、演奏者の奏法上の工夫で十分対応できた。近世邦楽では特に、演奏家の直接的な操作でしか表現できない微妙な音色、音程、余韻の変化などを積極的に利用、追求して来た。
ぶたおの秘密
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このような微妙なものに重きを置く考えは非常に根強いもので、現代でもほとんどの和楽器が基本的に江戸時代の姿を変えていない。西洋楽器の影響を受けて「近代化」したものが少なくない中国楽器とは対照的である。

また、楽器の改良もシンプルな方向に進むことが多かった。尺八、幕末の一弦琴や二弦琴はその最たる例である。簡潔さの中にこそ美があり、そこにこそ魂、霊が宿り、神や仏に近づくという日本古来の美意識、思想が音に反映された現れといえる。ただし、近親調への転調は近世邦楽では非常に多い。

2009年06月20日

多細胞生物においては、個々の細胞は独立して

多細胞生物においては、個々の細胞は独立して存在しているのではなく、細胞同士が付着、あるいは細胞が細胞外マトリックスに付着している。細胞同士の結合、および細胞の細胞外マトリックスへの結合を細胞接着cell adhesionという。前者を細胞接着(さいぼうせっちゃく、細胞間接着 cell-to-cell adhesion)、後者を細胞-マトリックス接着 cell-matrix adhesionと呼んで、前者のみを狭義の細胞接着ということもある。

細胞接着の基本は、細胞同士あるいは細胞とマトリックスが直接接触して付着しているということであるが、細胞は接着のために細胞骨格を動員した細胞接着のための装置を持つこともある。細胞接着は、細胞接着分子の分子間相互作用によって担われ、接着装置も接着分子を中心に形成される。細胞接着の様相は、細胞や組織の種類によって多様である。上皮では、一般に上皮細胞同士が強い接着を行い、アドヘレンス・ジャンクション、タイトジャンクション、デスモソームといった特殊化した接着構造
テニス
セキュリティ
花火
仏教絵画
東北地方
壁画
日用品
セパタクロー
印刷
水球
アスペルガー症候群
学習塾
ベリーダンス
北陸地方
水彩画
恐竜
水墨画
両生類
ジオキャッシング
アニマルセラピー


を形成する一方、細胞外マトリックスである基底膜に接着しヘミデスモソームを形成している。結合組織などの間質細胞は、細胞周辺の細胞外マトリックス(コラーゲン繊維など)に接着している。血液細胞のように、浮遊性でふだんは細胞接着しているようには見えない細胞でも、細胞分化や機能発現時には、ある種の組織への接着をする。免疫細胞では細胞の組織分配や機能発現に接着を介した細胞認識が重要である。神経細胞においては、神経細胞の移動、更に神経細胞から伸長した軸索誘導やシナプス形成の段階でも細胞接着を中心にした制御が不可欠である。

なお、培養皿の上で線維芽細胞などを培養すると、細胞はフィブロネクチンやヴィトロネクチンなどを介して皿上に伸展する。この現象は、細胞基質接着(cell-substratum adhesion)と呼ばれる細胞-マトリックス接着の一種である。この際、細胞の下部には、接着斑と呼ばれる構造ができる。

2009年06月02日

ロシア軍の後退戦術と日本陸軍の決戦主義(3月6日~8日)

ロシア軍は奉天前面を攻撃する日本軍の第二軍、第四軍、第一軍に対して反撃して損害を与え続け、自軍も損耗しつつも、3月6日になって奉天前面から徐々に計画的に後退を始めた。これはロシア軍正面を中央より第三軍のほうへ移す処置であった。このため、ロシア軍側面を攻撃していたはずの第三軍及び秋山支隊は敵正面に対することになってしまい、苦戦を強いられた。他の前線でもロシア軍が随時反撃を加え、日本軍の被害は徐々に増大していった。

もしクロパトキンがこの時期に総反撃を命じたら、満足な予備軍さえ持っていなかった日本軍が崩壊するという危機的状況にあった。しかし日本軍の首脳部はあくまで全線での総力戦を指令し続け、ロシア軍の強固な防衛線を前に日本兵は文字通り死体の山を築いた。そうした状況が数日続くにおよび、遂には銃を捨てて逃走する日本兵の姿すら見られる状況に至り(大石橋の惨戦)、満州の日本軍は絶体絶命の状況にあった。

児玉源太郎満州軍参謀長はついに作戦全体の方針転換を決め、腹心である松川敏胤大佐と図って、第四軍と第二軍に奉天への前進を指令した。

3月9日、ロシア軍の総帥クロパトキンは、突如、奉天が包囲されることを避けるため鉄嶺・哈爾浜方面への転進を指令した。これは日本軍が全く予期しなかった出来事であった。奉天のロシア兵はまだ余力のある状態で、総撤退を開始したのである。ここまでの戦いで大きな損害を受けていた日本軍は3月10日、無人になった奉天に雪崩れ込んだ。第四軍はロシア軍を追撃し、2個師団に打撃を与えた。なお、この日は翌年に陸軍記念日と定められている。日本側の死傷者は7万であった。
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ロシア軍の損害もまた大きく(ロシア側の死傷者9万)、回復には秋頃までかかる状況であった。しかし、ロシア軍が受けた最も大きな損害は士気だったと言われる。鉄嶺までの暫時退却であったはずだが、その過程で軍隊秩序は失せ、略奪、上官への背命など、軍隊としての体をなさないまでに崩れたという。そのためクロパトキンは鉄嶺も捨てて、北へさらに退いた。すぐに日本軍が鉄嶺を占領している。哈爾浜に逃れたクロパトキンは罷免された。

会戦後は日本軍の能力は格段に落ちており、鉄嶺まで占領して補給線が伸びきってしまった日本軍としては、この辺が攻勢の限界であった。これは物資だけでなく人的補充という意味でも同じで、最後まで惨戦を繰り返した第三軍は損耗率が4割から6割近くあったにもかかわらず[4]、その補充の予定すら立たない状況であった。特に第一線の将校、すなわち少尉から大尉程度の、前線指揮を執り兵の先頭を進む下級将校の欠乏は目を覆わんばかりで、開戦当初に配属されていた士官学校出身の現役将校はこれまでの会戦や旅順攻囲戦などによって大量に損耗していた。このため、大部分の将校が速成教育しか受けていない者や予備役から召集された者ばかりになり、前線での指揮も満足に取れない者が多く、またたった一日の行軍で体力を消耗してしまうような老齢の者も多く存在するような状態になっていた。これは奉天会戦開始前の鴨緑江軍所属の後備第1師団においてすでに顕著であり、同軍は奉天会戦後期にはほとんど活動できないまでになっていた。

2009年04月30日

農業では考古学の成果

農業では考古学の成果より渤海全域での鉄器の使用、牛耕の利用が確認されている。これらの農器具を利用し、渤海では五穀と称される麻、黍(もちきび)、稷(きび)、麦、菽が広く栽培されていた。これ以外に忽汗水流域の荏(えごま)、盧城の稲、丸都の李、楽游の梨など各地で特徴ある作物が栽培されていたことが知られている。また前後時代の記録を見ると葵菜の栽培や、渤海の使節が来日した際に渤海人の好む大韮を用意した記録からも、様々な野菜が栽培されていたことを窺い知る事が出来る。

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渤海では馬の飼育が重視されていた。これは軍事的な需要の他、駅站交通や貿易需要からもかなりの数が生産されていたことが知られている。また豚、牛、羊などの飼育も盛んであり、それらは渤海人の墳墓の中からそれらの骨が発掘されることからも十分に窺える。

唐への朝貢記録には鷹、鶻が進貢されており、特に海東青は鷹狩りの珍品とされ、貴重な貢者として唐へ献上されていた。他にも太白山(現在の長白山)の兎や扶余の鹿などは特産品として『新唐書』に記録されている。また日本との関係で重要な地位をしめたものが貂である。日本の貴族間で珍重された貂皮は当時の日本における最先端ファッションとして受け入れられていた。

発掘例は未だ確認されていないが、商品経済が発展していく中で渤海では貨幣が使用されていたと考えられている。それは大武芸が日本に送った国書の中で「皮幣」の文字を使用していること、873年に日本で貿易を行った際に、賜銭を得て日本の物産を購入していること、滅亡に際して耶律阿保機が「獲る所の器、幣」を将士に分け与えたことからも物々交換の段階を超え、貨幣が流通していた事を示すものと考えられている。

2009年04月15日

軻比能の登場

軻比能はもともと鮮卑の中でも勢力のない種族の出身であったが、勇敢で裁きが公平であり、財物を貪ることがなかったため、人々は彼を推して大人に戴いた。建安年間、軻比能は閻柔(えんじゅう)を通じて、献げ物を奉った。漢の丞相曹操が西方に軍を動かし、関中を征すると、田銀が河間で叛旗を翻した。軻比能は三千余騎をひきつれ閻柔に従って田銀を攻め、これを打ち破った。のちに代郡の烏丸が反乱をおこすと、軻比能は今度は烏丸と力を合せて侵攻し、漢に損害を与えた。曹操は、鄢陵侯(えんりょうこう)の曹彰を驍騎将軍に任じて北に攻め込ませ、曹彰は軻比能を手ひどく打ち破った。軻比能は逃げて長城の外に出たが、のちにはまた使者を送り、献げ物をするようになった。

延康の初め(220年)、軻比能は使者を送って馬を献上し、文帝のほうでも軻比能に附義王の位を授けた。

黄初二年(221年)、軻比能は魏の者で鮮卑の中に逃げてきている者たち五百余家を送り返して、代郡に移住させた。次の年、軻比能はその部族の大人や配下の者たち、代郡の烏丸の修武盧(しゅうぶろ)など三千余騎をひきつれ、牛や馬七万余頭を駆ってやってくると、魏との間に市場をひらいて交易をおこなった。また、魏の者千余家を送り返して上谷に移住させた。そののち、東部鮮卑の素利や歩度根の配下の三部族が軻比能と争いを起こし、互いに攻撃をかけあった。護鮮卑校尉の田予が調停をして、互いに侵伐することをやめさせた。

黄初五年(224年)、軻比能がふたたび素利に攻撃をかけると、田予は軽装備の騎兵を率いて駆けつけ、背後から牽制した。軻比能は小さな部隊を選んでその隊長の瑣奴(さど)に田予の攻撃を防がせたが、田予は積極的に攻撃をかけて、瑣奴を敗走させた。このことがあって、軻比能は魏を信頼しなくなったが、輔国将軍の鮮于輔(せんうほ)のとりなしで両者は友好関係を結んだ。軻比能はさらに勢力をまし、部下からの信用も厚くなったが、かつての檀石槐には及ばなかった。

太和二年(228年)、田予は通訳の夏舎を軻比能の娘婿の鬱築鞬(うつちくけん)の部族のもとに行かせたが、夏舎は鬱築鞬に殺された。その秋、田予は西部鮮卑の蒲頭と泄帰泥を率い長城を出て鬱築鞬を討ち、これをひどくうち破った。その帰還の途上、馬城まで来たとき、軻比能がみずから三万騎を率いて田予の軍を包囲し、その包囲は7日におよんだ。上谷太守の閻志は、閻柔の弟で、もともと鮮卑たちの信頼を受けていた。その閻志が行って諭したため、軻比能はすぐさま包囲を解いて引き揚げた。そののち、幽州刺史の王雄は、校尉の任を兼ね、恩賞と信義とでもって鮮卑たちをなつかせた。軻比能も、しばしば長城に入り、幽州の役所にやってきて献上物をささげた。

青龍元年(233年)になると、軻比能は歩度根に誘いをかけて、幷州の支配から抜け出させ、和親の約束を結ぶと、自ら一万騎を率いてその妻子眷族を陘北(けいほく)まで迎えに出た。幷州刺史の畢軌(ひつき)は、将軍の蘇尚・董弼(とうひつ)らを送ってこれに攻撃をかけさせた。軻比能は自分の息子に騎兵をひきつれさせて派遣し、蘇尚らと楼煩(ろうはん)において会戦し、その戦闘中に蘇尚と董弼を殺害した。三年(235年)になって、王雄は、勇猛の士の韓龍を送って軻比能を刺殺させると、代わってその弟を立てた。

その他の大人 [編集]
素利・弥加・厥機はそれぞれに大人であったが、遼西・右北平・漁陽などの郡の長城の外にいて、遠く離れていたために国境地帯に損害を及ぼすことは絶えてなかった。しかしその部族民の数は軻比能よりも多かった。建安年間、彼らは閻柔を通じて献げ物をたてまつって、漢との交易を求めてきた。曹操は彼らをそれぞれに表彰し手厚く待遇して、王の位を授けた。厥機が死ぬと、代わってその子の沙末汗を立てて親漢王の位を授けた。延康初年(220年)、彼らはまたそれぞれに使者を送って馬を献上してきた。文帝は、素利と弥加とを立てて帰義王の位を授けた。素利は、軻比能と戦いを交えた。太和二年(228年)、素利が死んだ。息子が幼かったので、弟の成律帰を王に立て、代わってその配下の統御にあたらせた。

習俗 [編集]
名称 [編集]
「鮮卑」という名称は、中国側の音訳であるが、その原音が何であったかは、彼らが文字を持たなかったため不明である。王沈の『魏書』などでは「鮮卑・烏桓なる族名は、山の名前より付いた」と記されている。『漢書』匈奴伝顔師古の註において、「犀毗(せいび、さいひ)とは胡の帯鈎なり、また鮮卑、師比ともいう」とあり、東洋史学者の白鳥庫吉などは、古代トルコ・モンゴル語で帯鈎をいうsärbi、満州語で異人をいうsabiが「鮮卑」の語源であるとし、逆に鮮卑山という山名は鮮卑(särbi/sabi)族が根拠地としたために鮮卑山と呼ばれるようになったと主張した(非山名説)。

歴代君主・王朝 [編集]
偏何(光武帝の時代)…鮮卑都護<『後漢書』鮮卑伝>
於仇賁&満頭(光武帝の時代)…54年に朝貢。それぞれ王と侯に封じられる。
廆(和帝の時代)…鮮卑の大都護の校尉。率衆王に封じられる。
燕茘陽(安帝の時代)…入朝し、鮮卑王に封じられる。
丘倫(安帝の時代)…永初三年(109年)、烏桓率衆王無何・南匈奴骨都侯らとともに反乱<『後漢書』鮮卑伝>
連休(安帝の時代)…元初四年(117年)、遼西で反乱を起こすが、漢と烏桓の於秩居に大敗する。<『後漢書』鮮卑伝>
烏倫&其至鞬(安帝から順帝の時代)…それぞれ王と侯に封じられるが、反乱を起こす。

壇石槐鮮卑 [編集]
檀石槐(155?年 - 181年?)
和連(181年? - 189年?)…檀石槐の子
魁頭(?年 - ?年)…和連の甥
鶱曼(?年 - ?年)…和連の子
歩度根(?年 - 234年?)…魁頭の弟。220年鮮卑王に封じられる。
扶羅韓(?年 - 218年殺)…魁頭の弟、歩度根の次兄。
泄帰泥(218年 - ?年)…扶羅韓の子。帰義王に封じられる。

軻比能鮮卑 [編集]
軻比能(?年 - 235年殺)…220年附義王に封じられる。
軻比能の弟(235年 - ?年)…苴羅侯とは別

東部鮮卑 [編集]
槐頭
素利鮮卑

素利(?年 - 228年)…220年帰義王に封じられる。
成律帰(228年 - ?年)…素利の弟
厥機鮮卑

厥機(?年 - ?年)
沙末汗(?年 - ?年)…厥機の子。親漢王に封じられる。
彌加鮮卑

彌加(?年 - ?年)…220年帰義王に封じられる。

中部鮮卑 [編集]
柯最
闕居
慕容

西部鮮卑 [編集]
置鞬落羅
日律推演
宴茘游
蒲頭(附頭)(?年 - ?年)

慕容部鮮卑 [編集]
莫護跋…慕容部の始祖、率義王を拝命される
慕容木延…莫護跋の子、左賢王を拝命される
慕容渉帰(? - 283年)…木延の子、鮮卑単于を拝命される
慕容耐(刪)(283年 - 285年殺)…渉帰の弟
慕容廆(285年 - 333年)…渉帰の次男嫡子

前燕  [編集]
高祖宣武帝(廆)
太祖文明帝(皝)(燕王337年 - 348年)…慕容廆の三男
烈祖景昭帝(儁)(燕王348年 - 352年、皇帝352年 - 360年)…慕容皝の次男
幽帝(暐)(360年 - 370年)…慕容儁の三男

後燕 [編集]
世祖成武帝(垂)(燕王384年 - 386年、皇帝386年 - 396年)…慕容皝の五男
烈宗恵愍帝(宝)(396年 - 398年)…慕容垂の四男
中宗昭武帝(盛)(398年 - 401年)…慕容宝の長男
昭文帝(熙)(401年 - 407年)…慕容垂の末子

西燕 [編集]
済北王(慕容泓)(384年)…慕容暐の弟
威帝(慕容沖)(384年 - 386年)…慕容泓の弟
燕王(段随)(386年)…慕容沖の配下
燕王(慕容凱)(386年)…宜都王(慕容桓)の子
燕帝(慕容望)(386年)…慕容沖の子
燕帝(慕容忠)(386年)…慕容泓の子
河東王(慕容永)(386年 - 394年)…慕容運の孫

南燕 [編集]
世宗献武帝(徳)(燕王:398年 - 400年、皇帝:400年 - 405年)…慕容皝の末子
慕容超(405年 - 410年)…慕容徳の甥

吐谷渾 [編集]
慕容渉帰
吐谷渾(285年? - 317年)…慕容渉帰の庶長子
吐延(317年 - 329年)…吐谷渾の長子
葉延(329年 - 351年)…吐延の長子
辟奚(砕爰)(351年 - 375年)…葉延の長子
視連(375年? - 390年)…辟奚の子
視罷(390年 - 400年)…視連の長子
烏紇提(大孩)(400年 - 405年)…視連の次男
樹洛幹(405年 - 417年)…視罷の長子
阿豺(417年 - 426年)…視罷の次男
慕璝(426年 - 436年)…烏紇提の長子
慕利延(436年 - 452年)…烏紇提の次男
拾寅(拾虔)(452年 - 481年)…樹洛幹の子
度易侯(481年 - 490年)…拾寅の子
伏連籌(490年 - 529年)…度易侯の子
誇呂(呂誇)(535年? - 591年)…伏連籌の子
世伏(591年 - 597年殺)…誇呂の子
伏允(597年 - 635年)…世伏の弟
越胡呂烏甘豆可汗(順)(635年 - 636年)…伏允の子
地也抜勒豆可汗(諾曷缽)(636年 - 666年)…順の子
<唐へ亡命(青海国)>

地也抜勒豆可汗(諾曷缽)(666年 - ?)
忠(? - ?)…諾曷缽の子
地也抜勒豆可汗(宣超)(700年 - ?)…忠の子
曦皓(? - ?)…宣超の子
兆(? - ?年)…曦皓の子
複(798年 - ?)

宇文部鮮卑(匈奴系) [編集]
葛烏菟(?年 - ?年)
普回(?年 - ?年)
莫那(?年 - ?年)…普回の子
~数代略~

莫槐(?年 - 293年)
普撥(293年 - ?年)…莫槐の弟
丘不勤(?年 - ?年)…普撥の子
莫圭(莫廆、莫珪)(?年 - ?年)…丘不勤の子
遜昵延(悉獨官)(?年 - ?年)…莫圭の子
乞得亀(?年 - 333年)…遜昵延の子
逸豆帰(侯豆帰)(333年 - 344年)
陵…逸豆帰の子
系…陵の子
韜…系の子
肱…韜の子

北周 [編集]
徳帝(宇文肱)…宇文韜の子
太祖文帝(宇文泰)…宇文肱の子
孝閔帝(宇文覚)(556年 - 557年) …宇文泰の三男
世宗明帝(宇文毓)(557年 - 560年) …宇文泰の長男
高祖武帝(宇文邕)(560年 - 578年) …宇文泰の四男
宣帝(宇文贇)(578年 - 580年) …武帝の子
静帝(宇文衍)(580年 - 581年)…宣帝の子

段部鮮卑 [編集]
日陸眷(?年 - ?年)
乞珍(?年 - ?年)…日陸眷の弟
務勿塵(務目塵)(?年 - ?年)…乞珍の子。303年、遼西公に封じられ、大単于を拝命。
疾陸眷(就六眷)(?年 - 318年)…務勿塵の子
涉複辰(318年殺)…務勿塵の弟
匹磾(318年 - 321年)…疾陸眷の弟
末波(末杯)(318年 - 325年)…疾陸眷の従弟
牙(325年 - ?年)…末波の弟
護遼(?年 - 338年殺)…日陸眷の弟?/就陸眷の孫?。331年、驃騎将軍となる。
郁蘭(338年 - ?年)…護遼の弟
龕(?年 - 357年殺)…郁蘭の子
勤(?年 - 359年)…末波の子。趙王を称す。

拓跋部鮮卑 [編集]
成帝(拓跋毛)(? - ?)
節帝(拓跋貸)(? - ?)
莊帝(拓跋観)(? - ?)
明帝(拓跋楼)(? - ?)
安帝(拓跋越)(? - ?)
宣帝(拓跋推寅)(? - ?)…大澤に南遷する。
景帝(拓跋利)(? - ?)
元帝(拓跋俟)(? - ?)
和帝(拓跋肆)(? - ?)
定帝(拓跋機)(? - ?)
僖帝(拓跋蓋)(? - ?)
威帝(拓跋儈)(? - ?)
献帝(拓跋鄰)(? - ?)
聖武帝(拓跋詰汾)(? - ?)…南遷する
始祖神元帝(拓跋力微)(220年 – 277年)…詰汾の子
文帝(拓跋沙漠汗)…力微の子、大人にはなっていない。
章帝(拓跋悉鹿)(278年 – 286年)…力微の子
平帝(拓跋綽)(287年 - 293年)…力微の子、悉鹿の弟
思帝(拓跋弗)(294年)…沙漠汗の少子
<三分統治>

昭帝(拓跋禄官)(295年 – 307年)…力微の子
桓帝(拓跋猗厓 )(295年 – 305年)…沙漠汗の長男
穆帝(拓跋猗盧)(295年 - 307年)…沙漠汗の次男

代 [編集]
<再統一>

穆帝(拓跋猗盧)(308年 - 316年)…315年代王となる
文平帝(拓跋普根)(316年)…猗厓の子
哀帝(名称不明)(316年)…普根の子
太祖平文帝(拓跋郁律)(317年 - 321年)…弗の子
恵帝(拓跋賀傉)(321年 - 325年)…猗厓の中子
煬帝(拓跋紇那)(325年 - 329年)…猗厓の少子
烈帝(拓跋翳槐)(329年 - 335年)…郁律の長男
煬帝(拓跋紇那)(335年 - 337年)復位
烈帝(拓跋翳槐)(337年 - 338年)復位
高祖昭成帝(拓跋什翼犍)(338年 - 376年)…郁律の次男

北魏 [編集]
太祖道武帝(拓跋珪)(398年 - 409年)…献明帝(拓跋寔)の子
太宗明元帝(拓跋嗣)(409年 - 423年)
世祖太武帝(拓跋燾)(423年 - 452年)
隠宗敬寿帝(拓跋余)(452年)
高宗文成帝(拓跋濬)(452年 - 465年)
顕祖献文帝(拓跋弘)(465年 - 471年)
高祖孝文帝(元宏)(471年 - 499年)
世祖宣武帝(元恪)(499年 - 515年)
粛宗孝明帝(元詡)(515年 - 528年)
敬宗孝荘帝(元子攸)(528年 - 530年)
廃帝曄(元曄)(530年 - 531年)
節閔帝(元恭)(531年)
順文帝(元朗)(531年 - 532年)
孝武帝(元修)(532年 - 534年)

西魏 [編集]
文帝(元宝炬)(535年 - 551年)
廃帝(元欽)(551年 - 554年)
恭帝(元廓)(554年 - 556年)

東魏 [編集]
孝静帝(元善見)(534年 - 550年)

禿髪部鮮卑 [編集]
拓跋匹孤(? - ?)
禿髪寿闐(? - ?)…匹孤の子
禿髪樹機能(? - ?)…寿闐の孫
禿髪務丸(? - ?)…樹機能の従弟
禿髪推斤(? - ?)…務丸の孫
禿髪思複鞬(? - ?)…推斤の子
禿髪烏孤(? - 397年)…思複鞬の子

南涼 [編集]
烈祖武王(禿髪烏孤)(397年 - 399年)
康王(禿髪利鹿孤)(399年 - 402年)…烏孤の弟
景王(禿髪傉檀)(402年 - 414年)…利鹿孤の弟

乞伏部鮮卑 [編集]
紇幹(? - ?)
乞伏可汗托鐸莫何(? - ?)
祐鄰(? - ?)
結権(? - ?)…祐鄰の子
利那(? - ?)…結権の子
祁埿(? - ?)…利那の弟
述延(? - ?)…利那の子
傉大寒(? - ?)…述延の子
司繁(? - ?)…傉大寒の子
国仁(? - 385年)…司繁の子

西秦 [編集]
烈祖宣烈王(国仁)(385年 - 388年)
高祖武元王(乾帰)(388年 - 400年、410年 - 412年)…国仁の弟
太祖文昭王(熾磐)(412年 - 428年)…乾帰の長子
後主(慕末)(428年 - 431年)…熾磐の次子

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